杉浦銀治先生ご逝去
2022年1月8日、杉浦先生は帰天されました。96歳でした。
私の炭人生は先生との出会いから始まりました。大学6年目のゼミ合宿が岩手県山形村での炭窯作り。「炭って何?」な私でしたが、そこにやって来られたのが当時62歳、農林試験場木材炭化研究室長を退職したばかりの先生でした。炭への愛の塊だった先生は、一週間私たちの合宿に付き合ってくれ、毎晩先生の炭談義をとことん聞かされた私は、合宿が終わる頃には、何を見ても炭と結び付けて考える脳の仕組みが出来上がりました。実際、炭が全く関係ないものはほぼなく、農業なら土壌改良剤の炭、自動車なら木炭自動車、紙幣の印刷も型を研磨炭で磨き、料理はもちろん炭火焼きが最も美味しく、水の浄化には活性炭など、先生の30年以上に及ぶ研究から出てくる話は、私の世界を”炭”で塗り換えたのでした。
それからちょくちょく先生の炭やき体験講座の助手を務め、その勢いで国際炭やき協力会を立ち上げて、国内はもとよりインドネシア、ブラジル、タイなどで先生を講師にした2〜3週間の炭やき研修会を開催し、炭の上手な焼き方、使い方、そして素晴らしさを伝えることができました。特にインドネシアには毎年のように植林ツアーで訪れ、惜しみなく誰にでも自分の豊富な経験と知識を与える熱量に現地のNGOスタッフ達から深く尊敬されていました。
また、先生は97年、和歌山県田辺市にオープンした紀州備長炭発見館に世界20か国の炭を展示することを市に提案し、その収集人として私を推してくれ、炭をテーマにした世界旅行のチャンスを与えてくれました。先生のお蔭で二年に渡ってアジア、アフリカ、ヨーロッパ、中東、南米、中米を、炭の情報を集めながらスリル満点の一人旅を楽しませてもらいました。
先生の炭への熱い思いは「炭焼きは地球を救う」を合言葉に多くの人の心を揺さぶり、立ち枯れが進む森林への炭撒きイベントは数多く開かれました。愛知では段戸山でヘリコプターから炭を撒き、世間を驚かせました。足尾銅山跡地への炭を使った緑化作業を5年以上現地の人たちと共同で続けたのも忘れられない思い出です。今でも先生の炭による環境改善の思いはしっかりと残っていて、全国各地でボランティアによる山への炭撒き活動が続いています。
試験場時代の最後、先生は炭の土壌改良に関する研究に取り組み、その成果として炭は農水省によって土壌改良剤として認定されました。それから日本では炭の農業利用が進むのですが、それから20年近く経て、世界がそれに気づき、バイオチャー学会が誕生しました。炭を土壌に埋めれば炭素固定=温暖化抑制ができ、さらに農業生産性が上がることで飢餓削減につながる、という点に研究者たちが着目したのです。しかしこれを提唱し始めたアメリカのヨハネス・レーマンは、実は先生から情報を得た日本の研究者からヒントを得たのでした。
2008年にイギリスで開かれた学会に、先生は「一生の思い出になるから行こうじゃないか」と私を誘ってくれ、これまでの日本における炭の土壌改良に関する研究と実践を先生と発表した時には、300人を超える聴衆から割れんばかりの拍手喝采を浴びました。壇上で「どうだ!これが日本の炭だ!」と言わんばかりに備長炭を“チーン”と鳴らす先生はとても満足しているようでした。今ではIPCCがバイオチャ-の農業利用を温暖化削減の公式メニューとして、そして日本でも政府が炭素削減手段として認定しており、Jクレジットと連動しています。
久保田代表がかつて全国雑木林会議に出た時に、活動の中で炭やきを取り入れている団体はほぼ全て「うちは杉浦先生に指導を受けています」と言ってたと笑ってました。先生は日本の市民による炭やきムーブメントも大きく後押ししましたが、それに留まらず世界までその熱量で動かし、炭の環境利用を地球規模で広めた人でありました。
誰にでも気さくに、熱く、朗らかに、礼儀正しく、時には少年のようにやんちゃに、でも細かいことには拘らず、人を非難せず、どんな人でも受け入れ、ダンディで、人間がとっても好きで、常に深い思いやりを持って人に接する、裏表の全くない、大きな大きな人でした。
私を“炭”の後継者としてずっと紹介してくれていました。先生の志と生き方をしっかりと受け継いで生きたいと思います。先生、これからもどうぞお見守り下さい。 合掌 広若 剛
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